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【スポーツ群像】高橋尚子と土佐礼子の引退走…マラソン伝道師に
【スポーツ群像】高橋尚子と土佐礼子の引退走…マラソン伝道師に
http://sankei.jp.msn.com/sports/other/090531/oth0905310801000-n1.htm

女子マラソン界を牽引(けんいん)した2人のランナーが3月に相次いで第一線から退いた。日本女子陸上界で初の五輪金メダルに輝いた高橋尚子(ファイテン)と、持ち前の粘りで世界選手権で2度も銅メダルを獲得した土佐礼子(三井住友海上)。学生時代は無名といってもいい存在だった2人は、走ることへの情熱と人一倍の努力で世界へと羽ばたいた。ともに「区切り」の42・195キロを終えた後も、走る楽しさを伝えていくという。
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「すごく楽しい42キロでした」。2000年シドニー五輪女子マラソン。誰よりも速くゴールテープを切った高橋はこう言って満面の笑みをたたえた。2時間23分14秒の優勝タイムは16年ぶりの五輪最高記録。そして日本女子陸上界で初めての金メダルだった。
一騎打ちとなったシモン(ルーマニア)を35キロ手前で振り切ったスパートは決して偶然ではなかった。シドニー入り後、32キロ付近に借り切った一軒家を拠点に、35キロ付近のアップダウンを利用して勝負に出る作戦を立て、練習を繰り返した。もちろんそれまでの過酷ともいえる練習があってこその切れ味。合宿先の米コロラド州ボルダーでは標高3500メートルという酸素が極めて少ない高地での練習をあえて取り入れた。高地練習は1600~2000メートル付近で行うのが一般的だが、誰よりも過酷な練習に挑むことで、「ここまでやったのだから」という自信を刻み込んだ。入念な準備と常識を覆す努力が県岐阜商、大阪学院大時代は無名に近い存在を五輪の頂点へと導いた。
「小さいころから走るのが好きで、よく出かけていっては『セミが鳴き始めたよ』『とんぼが飛び始めた…』と、走る中で感じた風景や季節の移ろいを話していた」とは父親の良明さん。人一倍の情熱が原動力となり、01年9月のベルリンマラソンでは女子で初めて2時間20分の壁を破る2時間19分46秒の世界記録(当時)樹立にもつながった。
その後は故障もあり、再び五輪の舞台に立つことはかなわなかった。だが、挑戦する姿勢は持ち続けた。05年に小出義雄監督との師弟関係を解消し、専属スタッフと「チームQ」を結成したのも、「より自分らしく走りたい」という挑戦の表れだったろう。「1日1日を全力で過ごし、その積み重ねでスタートラインに立つ」が信条。「あきらめなければ、夢はかなう」ことを走ることで、示したいと語ってきた高橋は、練習で自らに課した「関門をクリアできなくなった」ことを自覚したとき、引退を表明した。08年10月のことだった。
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北京五輪を最後に一線を退こうと、土佐は決めていた。だからもし、北京五輪でゴールできていたなら、東京マラソン(3月22日)には出ていなかったという。
「(北京五輪後は)普通に主婦業していたでしょうね。友達と世間話したり、(大好物の)ベーグルを作ったり…」
それだけ土佐にとって2度目の五輪、北京は苦い思い出となった。原因は五輪1カ月前に患った外反母趾。10キロを過ぎたあたりから、着地のたびに激痛が走った。苦悶(くもん)の表情を浮かべ、それでもゴールを目指す土佐の耳に、聞き慣れた夫、村井啓一さんの声が飛び込んできたのは25キロ過ぎだった。「もういい、やめろ!」。11回目のマラソンにして初めて味わう途中棄権となった。
北京五輪でのレースから1カ月後、夫妻は3泊4日の日程で、北海道を旅した。心身を癒す旅。ここで村井さんは胸に秘めてきた思いを打ち明けたという。
「途中棄権で終わりというのは…。もう一度マラソンを走って、区切りをつけてほしい」
北京でたどり着けなかったゴールへ、故郷・松山市で「東京」への挑戦は始まった。実業団に入って10年。視線の先に「世界」を見据え、米・ボルダーや中国・昆明で高地合宿を行ってきた。脚に張りを感じれば、トレーナーがほぐしてくれもした。だが、「東京」に向けた挑戦では違った。練習メニューを作るのは、かつて実業団の長距離選手だった夫。無事にスタートラインに立つことが第一だから、むやみに追い込まない。平日は母親のひな子さんがタイムを取り、給水を手伝った。「手作りマラソン」だった。
地元での調整は、松山大3年のときに走った初マラソン以来。かつての自分との違いにイライラも募ったという。だが、土佐は、いまある環境でどこまで戦えるのか、を楽しもうとも思って取り組んだ。“ママさんランナー”としての復帰も視野に入れているからだ。そんな土佐の気持ちを酌んだ所属先から契約更新の話ももらった。だから「東京」は「区切り」のレース。たどり着けなかったゴールへ、自分らしく走りたかった。
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高橋は「ありがとうラン」と位置づけた最後のレースに、シドニー五輪代表入りを決めた思い出の地、名古屋国際女子マラソン(3月8日)を選んだ。シドニー五輪の際、「すごく楽しい42キロでした」と満面に笑みをたたえた高橋。引退レースとなった「ありがとうラン」では沿道からの声援に終始、笑顔で応え、手を振りながら走り切った。そして「感動の42・195キロでした」と締めくくった。
「名古屋」を走り終え、「(陸上を始めて)23年間、かけっこを楽しく、思い切りやってきた。それが私の軸」と語った高橋は、自らを育ててくれた「かけっこ」の楽しさを今後も国内外で広めていくという。
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途中棄権に終わった北京五輪から7カ月。たどり着けなかったゴールを「東京」で越えたとき、土佐の表情はくしゃくしゃだった。笑顔でゴールしようと心に決めていた。だが、待ち受ける夫の泣き顔を見たとき、「思わず、もらい泣きしてしまいました」
5キロ過ぎに転倒するアクシデントもあったが、土佐らしく必死に前を追った。30キロ地点で6位。ここから3人抜いた。40キロ以降ではメンバー最速。3位。優勝には届かなかったが、「後半勝負でしか自分の持ち味は表現できない。そこは外せないかな」と語った通り、真骨頂の粘りをしっかりと表現し、目標とした2時間30分も切った。「最後まで粘って走れた。悔いなくひと区切りできます」。晴れやかな笑顔だった。
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子供のころ、「かけっこ」が大好きで、学校から帰ってくると田んぼや畑の広がる野道を走っていたという高橋。学生時代は無名の存在で恩師のツテを頼り、何とか実業団に潜り込んだ土佐。ともにマラソンへの情熱と努力を最大の武器に、世界で戦い、日本女子マラソン界を牽引した2人は、それぞれの思いを込めて“ラストラン”を走りきった。
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